ミッドライフ・クライシス(中年の危機)を生きる
ミッドライフ・クライシス、という言葉をご存じでしょうか。
文字通り「中年の危機」という概念です。
いろんな捉え方があるようですが、「自分の人生が下り坂にあることを自覚し、自分の人生はこんなものか、と悩むこと」であったり、そういう悩みから生じる「中高年が陥る鬱病や不安障害」を指すようです。
もう、そういう可能性は自分にはないのだ
私自身、この言葉を知ったのは最近です。
言われてみれば、実感できます。
こんな記事がありました。
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2018/04/30/090000
印象的なのが、この部分です。
とりあえず仕事を続けてきて、経済的には、そんなに困ってはいない。 でも、同じ職業、同じくらいの年齢の人のなかでの自分の実績・実力・モチベーションなどを考えていくと、いまから教授や大病院の責任者になっていけるとは思えないし、自分の病院をつくる甲斐性もない。 もともとそういう野心はない人間のはずなのに、「もう、そういう選択肢は自分にはないのだ」ということが現実になると、なんだかとても寂しくなるのです。
私も似たようなもので、25年もサラリーマンを続けてきて、それなりの給料をもらい、投資や副業もまあ上手くいき、経済的には困ってはいません。
でも、会社の同僚や同期と自分を比べてみて、これから自分が会社内で出世して取締役になったりするとは思えないし、それだけの能力もありません。
もともと出世しようと努力してきたわけでもなく、自分の時間をなるべく作って、旅をすることに人生の価値を置いていたはずなのに、それでも「もう、そういう可能性は自分にはないのだ」ということが現実になると、寂しさを感じることはあります。
野心はあってもやる気はない
会社の出世だけではありません。
若い頃の自分の人生プランとしては、バックパッカーとして世界一周をしたり海外留学をすることを考えていましたが、それも実現できそうにもありません。
本来、これは30代に実現しておくべきことでした。
もともと私は野心に乏しい人間ですが、それでも、まったくゼロというわけではありません。
その乏しい野心の可能性として、これから実現可能性が残っていることがあるとすれば、独立して会社を起こして経営者になる、ということでしょうか。
でもまあ、それとて零細企業の社長になるのがオチで、サラリーマンよりよほど大変そう。そうした大変さを克服するだけの「やる気」が自分にあるかというと、これまた疑問なわけで。
となると、残されている、自分の夢なり希望なりというのは、早めにセミリタイアして、のんびり暮らすというくらい。
でもそれは、職業人生の終わりを意味するわけで、それはそれで寂しくなるわけです。
自分の限界が見えてきた
先の記事の続きです。
そして、自分の限界というか、先行きもみえてくる。 自分にとって、いちばんマシなコースが、このまま地道に働いて稼いで、とりあえずそこそこがんばって働いた、人生、優良可でいえば、ギリギリで「良」くらいの人として死んでいくことだと思うと、なんなんだろうな、って思う。
自分の限界が見えてくる、というのは、私にとっても、40代における最大の発見でした。
なんというか、他人と自分の能力の違いが、客観的に理解できるようになってくるというか。
そして、人生の採点簿として、「あなたはこんなもの」と神様から申し渡された気分にもなります。
人生、優良可でいえば、私も「良」くらいかな。
事故も犯罪も起こさず、破産もせずに生きて来れたので、「不可」ではない気がする。
経済的に余裕もあるし、結婚して子どももでき、いろんな国を旅することができたので、「良」には入れてもらえるかもしれない。
でも、「優」を付ける理由はなさそうだ。
もちろん、私の場合は「良」でも満足できます。
だから私は、自分自身を「良でも十分、いい人生だ」と納得させて、ミッドライフ・クライシスをつつがなく生き延びているわけです。